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2012年5月13日 星期日
2011年11月27日 星期日
從日本統治下的台灣珠算教育,看近代台灣珠算教育之發展
台湾における日本統治下の珠算教育
-初等教育編
Education of Abacus in Taiwan under the Japanese
Rule;
At Primary School
摘要
日據時代教育的重要性雖經常拿來討論,關於理科的研究方面卻不充實。但
是對台灣人而言,理工醫科將來的出路,卻很重視語學能力方面的補足。這可以
從台北帝國大學研讀的台灣人之中,醫學系佔最高的比重這件事實看出。
本論文將焦點放在台灣施行的教育之中最重要的初等教育。筆者注意的是,
台灣在珠算傳到日本時登上歷史舞台的事情。還有在地政學上面,台灣位居日本
與中國之間,在屬於中國南方數學文化中心的珠算傳來日本上面扮演了重要的角
色。還有現在台灣也使用日本式的算盤,在文化方面台灣珠算也是應該研究的對
象。
因此,本論文從應用日語的觀點,採用以日語記述的原始史料,來考察日據
時代台灣的珠算教育。
台灣的珠算教育可分為:
1. 國語傳習所時代(1895-1908)
2. 總督府教材時代(1909-1934)
3. 文部省教材時代(1935-1945)
三個時期。其中,珠算教育視為實務之一,比在日本國內還受到重視。日本國內
將珠算視為和算(日本傳統數學)的一部分,背離社會實情而遭到捨棄。兩者正好相互對照。
到了第三期,日本國內的珠算教育復興,台灣則超越日本,實施珠算教育。
這可以說是珠算正好符合台灣社會的實際狀況。
日本統治下における教育の重要性は多く論究されているが、理系の教育研究は十分とは
言えない状態である。しかし、本島人(台湾人)にとって、理工系・医薬系への進路は、
語学における不利を補完するものとして重視されていた。これは、台北帝国大学における
本島人の比率が最も高いのが医学部であるという事実にも示されている。
本稿では、台湾での教育の中でも重要な初等教育に焦点を当てた。ここで注目したいの
は、台湾は、珠算が日本へ伝来する時期に歴史の表舞台に登場したという事である。さら
に、地政学的にも、日中の中間に位置し、南中国数学文化の中心である珠算の伝来に大き
な役割を果たしたに違いない。そして、現在でも、日本式珠算を用いるというように、文
化的な面からも台湾の珠算は研究すべき対象と言える。
そこで、本稿では、応用日本語学という見地から日本語で記述された一次史料を用い、
日本統治時代の台湾珠算教育を考察した。
台湾の算術教育は、
1. 国語伝習所時代(1895-1908)
2. 総督府教材時代(1909-1934)
3. 文部省教材時代(1935-1945)
に時代区分される。この中で、珠算は、実務教育として日本内地以上に重視されていた。
これは、日本内地では珠算が和算(日本伝統数学)の一部として、社会の実情に反して捨
象されていた事と好対照である。
第3期になると、日本内地でも珠算教育が復活するが、台湾ではそれに先駆けて珠算教
育を実施していたことになる。これは、珠算そのものが台湾の実情に合ったものであった
とも考えられる。
There are some studies
about Taiwanese education at Japanese rule age, however there are few
studies about natural
science education and engineering education in Taiwan. But most of
Taiwanese in that time
studied natural science, engineering and medical studies because they had
some handicap for
Japanese and social conditions, thus many elites of Taiwanese went on the
medical studies in the
Taipei Imperial University.
Therefore we will
consider the mathematical education at the primary because the primary
education was the most
important for Taiwanese. More, we attend that Taiwan appeared on the
stage of history at the
same time of introducing Chinese abacus to Japan. Taiwan is between China
and Japan, thus Taiwan
had to play the important role of transmitting Chinese abacus, which is the
counting tools in
Southern China, into Japan.
And now, Taiwanese use
Japanese abacus, not Chinese abacus. Therefore we must study
Taiwanese abacus from
the cultural view.
Therefore, we will use
primary historical materials which were written by Japanese. Because
we are studying “applied Japanese”, thus we hold a
dominant position than other historians in
Taiwan. Then we study
abacus’ education in Taiwan at
the Japanese rule age.
The epochs of
mathematical education in Taiwan in that time were as follows;
1. Kokugo Denshujo
(Japanese School) age (1895-1908)
2. Text books of the
government-general age (1909-1934)
3. Text books of the
Educational department age (1935-1945)
In that time, because
the abacus is practical use, thus it was more important than
Japan main land. In
other side, because the abacus was the tool of the Wasan
(Japanese mathematics),
thus it was not important in the official education system,
however most of Japanese
used it in the daily use.
At the stage three, the
Educational department revived the abacus education in Japan main land,
too. That is to say, the
education in Taiwan went ahead of one in Japan main land. More,
Taiwanese culture was
very fit with abacus.
一 緒論
二 先行研究と本稿の研究方向
三 算盤の形状と機能
四 台湾での日本式初等数学教育
(一) 国語伝習所時代(1985-1908)
(二) 総督府教材時代(1909-1934)
(三) 文部省教材時代(1935-1945)
五 日本式教育における台湾伝統算術教育
六 まとめ
七 謝辞
八 略年表
九 参考文献
本稿では、日本統治時代の教育を考えて行くわけであるが、従来の研究では、国語(日本語)教育
に重点が置かれ、理数科の研究はほとんど行われていない。これは、母語が異なるのであるから、言語教
育に着目したのは当然である。しかし、当時の本島人にとって、最高学府である台北帝国大学へは文系
より理系へ進む方が自然であった。
に重点が置かれ、理数科の研究はほとんど行われていない。これは、母語が異なるのであるから、言語教
育に着目したのは当然である。しかし、当時の本島人にとって、最高学府である台北帝国大学へは文系
より理系へ進む方が自然であった。
珠算教育を通じて教育を分析したのは3つ理由がある。
まず、歴史的には、台湾という地政学的位置は、中国大陸と日本の中間として、日中文化交流史の上から極
めて重要である。特に、文化史・数学史の立場からは、南中国文化導入が主流になった室町時代(1336-
1573)以降1は、ちょうど台湾が東アジア文明に接触を始めた時期であり、台湾の果たした役割の解明
が待たれている。
めて重要である。特に、文化史・数学史の立場からは、南中国文化導入が主流になった室町時代(1336-
1573)以降1は、ちょうど台湾が東アジア文明に接触を始めた時期であり、台湾の果たした役割の解明
が待たれている。
次に、地理的にも台湾の位置は重要である。南北中国数学の差異が計算器具の違いにあり、南方の特徴が
珠算にあるのは明白である2。しかし、残念ながらそれが、いつ、どのように日本へ伝わったのかは定かでは
ない。近年まで中国算盤3の生産地が、安徽省(特に長江以南)や浙江省・広東省など南部であることを考え
れば、それらの地区と日本を結ぶ海上にある台湾は、海上交通の中継点として、非常に興味有る対象であ
る。だが、当時、中華文明のフロンティアであった台湾では、辺境だったせいか、史料がほとんど残されてい
ない。
珠算にあるのは明白である2。しかし、残念ながらそれが、いつ、どのように日本へ伝わったのかは定かでは
ない。近年まで中国算盤3の生産地が、安徽省(特に長江以南)や浙江省・広東省など南部であることを考え
れば、それらの地区と日本を結ぶ海上にある台湾は、海上交通の中継点として、非常に興味有る対象であ
る。だが、当時、中華文明のフロンティアであった台湾では、辺境だったせいか、史料がほとんど残されてい
ない。
1 中国数学、ひいては中国文化は地理的に准河・秦嶺山脈を境に南北文化に分けられ、歴史的に元寇を境に日本への南中国文
化が伝来・応用するようになり、文化の中心が移転している(石田一良.1951.『文化史学』参照)。
化が伝来・応用するようになり、文化の中心が移転している(石田一良.1951.『文化史学』参照)。
2 城地茂.1995「和算の源流」:120-129。なお、北中国数学を代表する計算器具は算木で、南中国は珠算、
時代的には明代が珠算で、それ以前が算木となっている。
3 算盤の漢字は「算盤」「十露盤」を使うことが多い。また、算木を布算する盤を「算盤」と江戸時代
(1603-1867)に呼称するが、本稿では、「算盤」を珠算という意味で用いた。
珠、梁下四珠の新日本算盤が混じり合い文化的に格好の研究対象といえる。新旧日本算盤の交代は1938
年(昭和13 年)であり4、これは日本統治時代に含まれ、台湾でも、その文化的変遷の渦中にあった5。
このように、台湾は地理的・歴史的双方から珠算研究がされるべき対象である。
最後に、珠算の日本内地での扱いが、台湾を通じて明確になるという側面がある。社会史の分析手段と
して珠算を用いるという試みである。
して珠算を用いるという試みである。
これは、明治以後、珠算は、東アジア数学の特徴と見なされて、西洋化教育を理念とは反してい
た。しかし、実務として日本社会に深く浸透していたのも事実である。そのため、初期には、珠算教育
は廃止されていた。しかし、教育理念が、実務優先となる1935 年以降、積極的に教育に取り入れられ
ている。このため、台湾では、初期から積極的に導入され、結果として日本式算盤が21 世紀の現在でも
残っている。珠算教育の盛衰から、台湾での日本統治下教育の本質に迫ってみたい。
た。しかし、実務として日本社会に深く浸透していたのも事実である。そのため、初期には、珠算教育
は廃止されていた。しかし、教育理念が、実務優先となる1935 年以降、積極的に教育に取り入れられ
ている。このため、台湾では、初期から積極的に導入され、結果として日本式算盤が21 世紀の現在でも
残っている。珠算教育の盛衰から、台湾での日本統治下教育の本質に迫ってみたい。
二 先行研究と本稿の研究方向
第1節で述べたように、地理的、歴史的な関係から、台湾での算術の特色は珠算にある。
日本での珠算の研究では、珠算塾が全盛の頃は研究が盛んで、『珠算春秋』6という雑誌も発行されてい
る。山崎与右衛門・戸谷清一・鈴木久男.『珠算算法の歴史』7といった大著が著され、この方面の研究
は進んでいる。鈴木久男.『珠算の歴史』8は、小さくまとまった好著と言えるだろう。計算機としての
歴史をまとめた鈴木久男.『計算器具発達史』9も機能から珠算をとらえたものとして有用である。
る。山崎与右衛門・戸谷清一・鈴木久男.『珠算算法の歴史』7といった大著が著され、この方面の研究
は進んでいる。鈴木久男.『珠算の歴史』8は、小さくまとまった好著と言えるだろう。計算機としての
歴史をまとめた鈴木久男.『計算器具発達史』9も機能から珠算をとらえたものとして有用である。
中国の珠算研究では、華印椿. 『中国珠算史稿』10がまとまったものである。
日中の交流では、児玉明人. 『十六世紀末、明刊の珠算書』11がある。これは、基本的に珠算書を復刻し
たものであるが、その解題には筆者の力量が現れている。題名からも、時代的に、台湾の黎明と珠算が
期を一にしていることが分かるだろう。しかし、これらの先行研究でも、台湾における珠算の研究は、ほと
んど行われていないのが実情である。
たものであるが、その解題には筆者の力量が現れている。題名からも、時代的に、台湾の黎明と珠算が
期を一にしていることが分かるだろう。しかし、これらの先行研究でも、台湾における珠算の研究は、ほと
んど行われていないのが実情である。
4 鈴木久男.1967.『計算器具発達史』:44。
5 現在、台湾の学童は、新日本算盤(1-4 算盤)を使っている。
6 全国珠算教育連盟研修委員会.(AN0006752X):京都。
7 山崎与右衛門・戸谷清一・鈴木久男.1963.『珠算算法の歴史』。
8 鈴木久男.1964.『珠算の歴史』。
9 鈴木久男.1964.『計算器具発達史』。
10 華印椿. 1987.『中国珠算史稿』。
11 児玉明人. 1975.『十六世紀末、明刊の珠算書』。
教育の方面からは、吉野秀公.『台湾教育史』12が1997 年に復刻されたので、非常に有用である。この他
に、李園会.『日本統治下における台湾初等教育』13、林文龍.『台湾的書院与科挙』14を、また日本内地の
研究では平岡忠.『小学校算数科教育の研究』15を用いることになるだろう。平岡.1992 には、算数教育の歴
史的にまで踏み込んだ記述がある。
に、李園会.『日本統治下における台湾初等教育』13、林文龍.『台湾的書院与科挙』14を、また日本内地の
研究では平岡忠.『小学校算数科教育の研究』15を用いることになるだろう。平岡.1992 には、算数教育の歴
史的にまで踏み込んだ記述がある。
台湾統治時期初期に台湾を調査した片岡厳.『台湾風俗誌』16には最も古い記述の一つである。一般
の台湾史としては、盛清沂・王詩琅・高樹藩.『台湾史』17を用いた。教育についても端的にまとめられて
いる。これらは、上述の文献が歴史的なものであるのに対し地理的地誌的な方面から本稿を支えるものと
なるだろう。
の台湾史としては、盛清沂・王詩琅・高樹藩.『台湾史』17を用いた。教育についても端的にまとめられて
いる。これらは、上述の文献が歴史的なものであるのに対し地理的地誌的な方面から本稿を支えるものと
なるだろう。
これらの先行研究を踏まえて、台湾の算術、算数、珠算を調査するわけであるが、これらだけでは
史料不足は否めない。そこで、台湾人(本島人)の証言も重要な要素になってくる。これには、漢族の
証言として、黄富三・陳俐甫.『近現代台湾口述歴史』18を先住民パイワン族)の証言として高淑筠・王
亭尹・劉璟瑮・許雅妮.『日本統治時代における先住民教育について』19を用い、文献だけではなく、生
きた台湾の歴史記述からも調査することに努めた。
史料不足は否めない。そこで、台湾人(本島人)の証言も重要な要素になってくる。これには、漢族の
証言として、黄富三・陳俐甫.『近現代台湾口述歴史』18を先住民パイワン族)の証言として高淑筠・王
亭尹・劉璟瑮・許雅妮.『日本統治時代における先住民教育について』19を用い、文献だけではなく、生
きた台湾の歴史記述からも調査することに努めた。
三 算盤の形状と機能
珠算は、一般的には、明(1368-1644)以降に一般化した計算器具と言われている20。中国の計算器具
は、算木21であり、それが変化したものであるため、その起源は算木と同じ時期、すなわち、大体、漢
(B.C.202-A.D.8、AD.25-219)ごろまで遡れるという説22もあるが、これは疑わしい。なぜなら、算盤
の最古の記述とされる『数術記遺』の作者が徐岳(2世紀ごろ)とされているが、これはどうも仮託の
ようで、実際の著者は甄鸞(6世紀ごろ)とするのが中国数学史家の見解だからである23。
は、算木21であり、それが変化したものであるため、その起源は算木と同じ時期、すなわち、大体、漢
(B.C.202-A.D.8、AD.25-219)ごろまで遡れるという説22もあるが、これは疑わしい。なぜなら、算盤
の最古の記述とされる『数術記遺』の作者が徐岳(2世紀ごろ)とされているが、これはどうも仮託の
ようで、実際の著者は甄鸞(6世紀ごろ)とするのが中国数学史家の見解だからである23。
現存する数学書で、算盤の図が最初に記載されているのは、『盤珠算法』(徐心魯、1573年)であ
るが、これは、梁上一珠、梁下五珠になっている。『数学通軌』(柯尚遷、1578 年)
るが、これは、梁上一珠、梁下五珠になっている。『数学通軌』(柯尚遷、1578 年)
12 吉野秀公.1927.『台湾教育史』。
13 李園会. 1981.『日本統治下における台湾初等教育』。
14 林文龍. 1999.『台湾的書院与科挙』。
15 平岡忠. 1992.『小学校算数科教育の研究』。
16 片岡厳. 1924.『台湾風俗誌』。
17 盛清沂・王詩琅・高樹藩. 1977.『台湾史』。
18 黄富三・陳俐甫. 1991.『近現代台湾口述歴史』。
19 高淑筠.王亭尹.劉璟瑮.許雅妮.2000.『日本統治時代における先住民教育について』。
20 『輟耕録』(1366 年)に「算盤珠」という用語が記載されている(鈴木久男.1967:30)。
21 中国の計算器具。長さ六寸、直径1分(許慎、『説文解字』、第五上) というから、占いの筮竹よりや
や小振りな竹ひごのようなもので計算した。布算は、図3、4参照。なお、赤が正数、黒が負数を表し、
この色合いは、赤が「赤字」である西洋のものと好対照をなしている。
22 鈴木久男.1967:24。
23 銭宝琮.1964:92-94。
1592 年)と同じ様式である。この16 世紀末は、台湾が東アジア文化に登場する頃である。なお、台湾
には、中国算盤と日本算盤24があるが、現在では、後者が優勢である。
梁上2珠、梁下5珠の算盤は、1桁に0 から15 までの数字を置くことができるので、1斤16 両という
16 進法を使う(度量)衡制度に便利なためである25。
16 進法を使う(度量)衡制度に便利なためである25。
また、「割り声26」で割り算の計算をするときにも、10 以上の方が便利である。9に9を加える場
合もあるから、18 まで置けるのが理想であるが、15 まであれば、ほとんどの場合まで網羅することが
でき実用的には困らなかったようである。なお、江戸時代には、実際に15 以上の数値を置けるように、
梁上三珠(梁下五珠)の算盤も考案されているが、普及しなかった27。
合もあるから、18 まで置けるのが理想であるが、15 まであれば、ほとんどの場合まで網羅することが
でき実用的には困らなかったようである。なお、江戸時代には、実際に15 以上の数値を置けるように、
梁上三珠(梁下五珠)の算盤も考案されているが、普及しなかった27。
なお、桁数は、奇数になるのが普通である。これは、中国算盤の場合、珠が大きくなり、強度を考えた
場合に、中央に金属製などの強度のある棒を串とし、左右対称に竹製の串をけたためである28。掛け算
や割り算をする必要性29から、実際は、11 桁から13 桁(『数学通軌』)・15 桁(『算法統宗』)・17
桁(『算学新説』(朱載堉、1584 年)30)程度のものが一般に用いられていたようである。
場合に、中央に金属製などの強度のある棒を串とし、左右対称に竹製の串をけたためである28。掛け算
や割り算をする必要性29から、実際は、11 桁から13 桁(『数学通軌』)・15 桁(『算法統宗』)・17
桁(『算学新説』(朱載堉、1584 年)30)程度のものが一般に用いられていたようである。
これらの機能を考えると、漢方薬店や茶業などでは今でも斤・両を使う台湾では、中国式算盤も近
年まで残っていたという理由が分かるだろう。また、中華文明の象徴として、中国算盤を捉えていたと
いう側面もあるだろう。
年まで残っていたという理由が分かるだろう。また、中華文明の象徴として、中国算盤を捉えていたと
いう側面もあるだろう。
四 台湾での日本式初等数学教育
台湾の初等数学教育の時代区分は、
1. 国語伝習所時代(1985-1908)
2. 総督府教材時代(1909-1934)
3. 文部省教材時代(1935-1945)
と教材により3つに分けられる。内地の時代区分と比較すると、以下のようになる。
24 文部省の指導にもあるように、新算盤を推奨していたが、日本統治下では、新算盤が日本内地でも不足していたため
か、旧日本算盤が使われていた。
か、旧日本算盤が使われていた。
25 鈴木久男.1967:32。
26 「二一添(日本では同じ発音の「天」になる)作の五」ではじまる割り算の九九。このうち「八算」は除数が1桁のもの
で、「見一」は除数が2桁のものを言う。帰除法・九帰法とも言う。
で、「見一」は除数が2桁のものを言う。帰除法・九帰法とも言う。
27 理論上20 までの数値を置くことができる。この最も古い報告の一つは、山形県東村山郡山寺村の伊沢家に伝わるもの
である(大木善太郎.1933:341-351)。また、名古屋の「鈴木算盤博物館」にも梁上三珠の算盤が現存している。
である(大木善太郎.1933:341-351)。また、名古屋の「鈴木算盤博物館」にも梁上三珠の算盤が現存している。
28 複数金属製の軸があるものもあるが、左右対称にするためには、やはり奇数桁になる。
29 珠算の乗除では、乗除数、被乗除数、積・商と3種類の数値を置くので、11-17 桁程度が必要になる。
30 通俗的なものは17 桁であるという記述がある(鈴木久男.1967:32)。文部省の指定も17 桁としている。
台湾内地
国語伝習所時代(1895-1908) 検定教科書時代(1886-1902)
黒 表紙教科書Ⅰ(1905-1909)
『 公学校算術科教材』(1909-1914)
黒 表紙教科書Ⅱ(1910-1917)
『 公学校算術書』児童用(1914-1934)
黒 表紙教科書Ⅲ(1918-1924)
『 公学校算術書』教師用(1921-1934)
国 定教科書時代1903-1934
黒 表紙教科書Ⅳ(1925-1934)
総 督府教材時代1909-1934
『 公学校算術書・第2 種』(1935)
文部省教材緑表紙教科書(1935-1941)
( 国定教科書)時代1935-1945
水色表紙教科書(1942-1945)
公学校では、1935 年まで台湾総督府の編集した教材が用いられていた31が、1935 年に内地と同じ教科書に
なっている32。ここで言う「黒表紙教科書」とは、国定教科書第3期(1918-1934)の『尋常小学算術書』
の事である。3回に渡って改訂されたが、1934 年までずっと用いられている。「緑表紙教科書」と
は、国定教科書第4期(1935-1940)に区分される『尋常小学算術書』である。第5期(1941-1945)
である『カズノホン』(1-2 年生用)・初等科算数』(3-6 年生用)が「水色表紙本」である。33
なっている32。ここで言う「黒表紙教科書」とは、国定教科書第3期(1918-1934)の『尋常小学算術書』
の事である。3回に渡って改訂されたが、1934 年までずっと用いられている。「緑表紙教科書」と
は、国定教科書第4期(1935-1940)に区分される『尋常小学算術書』である。第5期(1941-1945)
である『カズノホン』(1-2 年生用)・初等科算数』(3-6 年生用)が「水色表紙本」である。33
(1) 国語伝習所時代(1886 年-1908 年)
この時代は、国語伝習所附属学校とその発展的機関での教育時代である。
1895 年(明治28 年)、台湾総督府は、学務部を大稲埕に設立し、教育行政を始めた。大稲埕は、台北
における商業の中心地の一つであり、書房・義塾34も多かった。そのため教育行政の中心として適当な
場所と言える。そして、芝山巌学堂を設立し、近代的教育を始めた。翌年より台湾人児童、および成人
に日本語教育を始めた。なお、教育行政は、民生部に移管されその一部局である学務課が行うことにな
った。
における商業の中心地の一つであり、書房・義塾34も多かった。そのため教育行政の中心として適当な
場所と言える。そして、芝山巌学堂を設立し、近代的教育を始めた。翌年より台湾人児童、および成人
に日本語教育を始めた。なお、教育行政は、民生部に移管されその一部局である学務課が行うことにな
った。
31 朝鮮総督府では、独自の算術教科書(『普通学校算術書』)が使われていた。これは、1985 年に復刻されている
(『旧植民地占領地用教科書集成・朝鮮総督府編纂教科書(1922-1928)』東京:あゆみ出版.)。
(『旧植民地占領地用教科書集成・朝鮮総督府編纂教科書(1922-1928)』東京:あゆみ出版.)。
32 内藤嘉啓.1935.:41 には、「ところが之(『尋常小学算術』緑表紙本)を本島の様な気候風土を異にした遠隔の地に於
いて、しかも公学校に於いて使用しようとするときは、此の意味(実際的な教具)が余程失はれる事になる。此の教科書
を使わなければならない立場にある公学校教員諸君には誠に気の毒な次第である。」と風土の違う台湾で同じ教科書を使
う事を嘆いている。
いて、しかも公学校に於いて使用しようとするときは、此の意味(実際的な教具)が余程失はれる事になる。此の教科書
を使わなければならない立場にある公学校教員諸君には誠に気の毒な次第である。」と風土の違う台湾で同じ教科書を使
う事を嘆いている。
33 なお、国定教科書第1期は、1905-1909
年、第2期は、1910-1917
年である。
34 書房も義塾も寺子屋のような初等教育機関であるが、書房は授業料が必要であるが、義塾は納めないものである。
このような国語(日本語)を教える国語伝習所は14 カ所を数えていた。8 才から15 才
までの児童に対し、4 年間の教育を行ったが、教科は、国語の他、読書、作文、習字、算術を必修と
し、漢文・地理・歴史・唱歌・体操・裁縫(女子のみ)を履修することができるようになっていた35
が、実際は、1 週間28 時間の教育で、4 時間を算術教育に充てていた。
し、漢文・地理・歴史・唱歌・体操・裁縫(女子のみ)を履修することができるようになっていた35
が、実際は、1 週間28 時間の教育で、4 時間を算術教育に充てていた。
しかも、表2にあるように、2 年生から珠算を教えている。これは、近代的教育課程では日本数学教育史
上、最も早く珠算教育を開始する学齢である。日本内地では、ことさら珠算教育が放棄されていた時期36に、
台湾では時代を先取りする形で行われていた。
上、最も早く珠算教育を開始する学齢である。日本内地では、ことさら珠算教育が放棄されていた時期36に、
台湾では時代を先取りする形で行われていた。
さらに、「割り声」(「八算」・「見一」)による割り算を教えており(表2参照)、この場合は、第
3節で述べたように、中国算盤が扱いやすい。なお、15才から30才の成人の甲種生には6ヶ月の日
本語教育を行っているが、算術は教えていない。
3節で述べたように、中国算盤が扱いやすい。なお、15才から30才の成人の甲種生には6ヶ月の日
本語教育を行っているが、算術は教えていない。
しかし、1908 年(明治41 年)の民政長官通達37に「(小学校)教科目中、図画科、幾何画及珠算ノ課
シ方並小学校令施行規則第21 条38ニ依リ教授スル場合ニ於ケル教科用図書等ノ使用方」には「三、珠算ハ
尋常小学校第四学年以上各学年並高等小学校各学年ニ於テ之ヲ課スルモノトス(小学校令施行規則第四条
四項39及第四号表参照)」とあるように、台湾でも、4年生以降となる。筆算との関連を考えると2年生では
早すぎるという事である。
シ方並小学校令施行規則第21 条38ニ依リ教授スル場合ニ於ケル教科用図書等ノ使用方」には「三、珠算ハ
尋常小学校第四学年以上各学年並高等小学校各学年ニ於テ之ヲ課スルモノトス(小学校令施行規則第四条
四項39及第四号表参照)」とあるように、台湾でも、4年生以降となる。筆算との関連を考えると2年生では
早すぎるという事である。
表1 国語伝習所の課程(1896 年(明治29 年)8 月10 日)
対象期間
甲科生15-30 才6ヶ月国語(日本語)、読書・作文
乙科生8-15才4年必修国語、読書、作文、習字、算術
随意漢文、地理、歴史、唱歌、体操、裁縫(女子のみ)
出所)吉野秀公、『台湾教育史』(台湾日日新報社、1927 年)pp.298-307.より作成
表2 国語学校附属学校、算術科課程表
1年2年3年4年5年6年7年8年
国 語伝習所
乙科課程1896 年
4 時間
20 以下加減乗除
100 以下の数字
4 時間
100 以下加減乗除
珠 算加減法
4 時間
八算1000 以下
珠 算加減乗除
4 時間
見一万以下
珠 算加減乗除
35 「国語伝習所規則」第4条(吉野秀公.1927:299)。
36 1907 年に珠算教育を再開している。「小学校令施行規則」第4 条4 項に「算術ハ筆算ヲ用フヘシ。尋常小学校ニ在リテ
ハ土地ノ情況ニ依リ珠算ヲ併セ用フコトヲ得。高等小学校ニ在リテハ珠算ヲ併セ課スヘシ」とある。
ハ土地ノ情況ニ依リ珠算ヲ併セ用フコトヲ得。高等小学校ニ在リテハ珠算ヲ併セ課スヘシ」とある。
37 1908 年3 月5 日、民統第837 号、1916 年民学第215 号により改正。
38 複式学級の規定である。
39 「小学校令施行規則」第4 条4 項。註35 に同じ。
3 時間
20 以下加減乗除
100 以下の数字
3 時間
100 以下加減乗除
珠 算加減法
3 時間
八算1000 以上
珠算加減乗除
5 時間
見一万以下
珠算加減乗除
5 時間
珠 算復習
分数
5 時間
珠算復習
分数小数比例
出所)吉野秀公.1927:302-303
および305-306
より作成。
1896 年9月25 日には、「国語学校規則」が制定され、附属学校でも初等算術教育がなされたが、これ
らは、国語伝習所乙科生とほとんど同じである。第一附属学校(芝山巌学堂)は6 年制であるが、4 年
生までの課程は、授業時間が異なるだけで、国語伝習所乙科生と同じである。後に公学校となる第二、第三
附属学校は、第一附属学校の4 年次までの課程を行っている。
らは、国語伝習所乙科生とほとんど同じである。第一附属学校(芝山巌学堂)は6 年制であるが、4 年
生までの課程は、授業時間が異なるだけで、国語伝習所乙科生と同じである。後に公学校となる第二、第三
附属学校は、第一附属学校の4 年次までの課程を行っている。
ここでは、日本内地では洋算化によって駆逐された珠算や「割り声」による計算が大きく取り上げられてい
る。
る。
1898 年(明治31 年)に、「台湾公学校令」・「公学校規則」40が発布され、漢族は公学校に通い、小学
校は実質的に日本人専用であった41。しかも、初期には、中下層階級の子弟しか公学校へ通っていない。図
1 より分かるように、本島人では、男子就学率でさえ、先住民のそれと同等かむしろ低いぐらいであ
り、女子に到っては低くなっている。上流階級を含め少なからぬ本島人は、当初、書房・義塾へ通って
いた42。
校は実質的に日本人専用であった41。しかも、初期には、中下層階級の子弟しか公学校へ通っていない。図
1 より分かるように、本島人では、男子就学率でさえ、先住民のそれと同等かむしろ低いぐらいであ
り、女子に到っては低くなっている。上流階級を含め少なからぬ本島人は、当初、書房・義塾へ通って
いた42。
40 1898 年8 月6 日。府令78 号。
41 1936 年当時、小学校へ通っていた台湾人は、5%程度と言われる(盛清沂・王詩琅・高樹藩、1977:.592)。
1940 年(国民学校に統一される以前の最終学年度)には、
注表1 1940 年小学校就学率小学校児童総数 本島人比率(%)
高砂族比率(%) その他比率(%)
男 22892 尋常科2144 9.37 21
0.09 38 0.17
女 21417 1308 6.11
10 0.05 33 0.15
高等科男 1906
226 11.9 3 0.16 7 0.37
女 1872 85 4.54 0 0
2 0.11
計 男 24798 2370 9.56
24 0.1 45 0.18
女 23289 1393 5.98
10 0.04 35 0.15
総計48087 3763 7.83
34 0.07 80 0.17
出所)台湾総督府(編)1941.『台湾の学校教育・昭和15 年度版』:9-10 より作成となっている。
42 注表2 公学校と書房の比較
公学校書房
学校数教員数男子児童数女子児童数数
教員数生徒数
1898 年74 247 7548 290
1707 ? 29941
1940 年824
*1
9563
407680
*2
225102
*3
17 38
996
*1:4年制公学校12、分教場117 を含む *2:高等科2408 名を含む *3:高等科678 名を含む
出所)吉野秀公.1927:.235。
図1 台湾の就学率
出所)台湾総督府文教局(編).1947『台湾の学校教育・昭和16 年度版』:121-122。李園会.1981:89-
90。台湾総督府警務局理蕃課.1935『理蕃概況』:23。鈴木作太郎.1932:358。台湾総督府警務局理蕃
課.1937.『高砂族調査書第四編』:247。台湾総督府警務局理蕃課.1940:vol.2 2 より作成
90。台湾総督府警務局理蕃課.1935『理蕃概況』:23。鈴木作太郎.1932:358。台湾総督府警務局理蕃
課.1937.『高砂族調査書第四編』:247。台湾総督府警務局理蕃課.1940:vol.2 2 より作成
(2) 総督府教材時代(1909-1935)
この時期は、算術教材も台湾の特殊性を考慮し、台湾総督府で編集した教材を使っていた時代と規定で
きる。
きる。
台湾総督府では、1909 年(明治42 年)に『公学校算術教材』を編纂したのが始まりである。1914 年
(大正3 年)には、『公学校算術書』の児童用を、1921 年には教師用を編纂した。児童用は、1 年・2
年は教科書を使わないため3 年次から6 年次までになっている43。
(大正3 年)には、『公学校算術書』の児童用を、1921 年には教師用を編纂した。児童用は、1 年・2
年は教科書を使わないため3 年次から6 年次までになっている43。
さらに、1935 年(昭和10 年)に『公学校算術書』(第2 種教師用)・翌1936 年には児童用を発行して
いる。これは、時期的には、本内地の緑表紙本と期を一にするものであるが、公学校でどちらの教科書
を使うかは混乱があったようで、発行まもなく緑表紙本を使うことになり44、新しい時代を迎えること
になる。
いる。これは、時期的には、本内地の緑表紙本と期を一にするものであるが、公学校でどちらの教科書
を使うかは混乱があったようで、発行まもなく緑表紙本を使うことになり44、新しい時代を迎えること
になる。
台湾で総督府が実施した初等教育は、三元化していたのはよく知られている。概略、日
本人の小学校、漢族の公学校、先住民の「蕃人ノ子弟ヲ就学セシムベキ公学校」(以下「蕃
人公学校」と略称)・(蕃童)教育所という区分である。これらの教育機関では、当然、日本式の教育であるから、西洋の算術が教えられていた。
この時期、内地では『尋常算術書』(黒表紙教科書、1905-1935)の時代である。『公学校算術科教材』は、基本的にこれに準拠している。しかし、珠算教育はやっと日本内地でも、1907 年(明治40 年)に復活したばかりである。このときは、高等小学校45で学ぶものとされ、義務教育では行われていないわけである。日本内地では、和算を廃止し、洋算に統一したのが1872 年(明治5 年)である。学制が発布され、和算の一部である珠算が廃止され筆算で行うように規定された。しかし、実際には珠算は広く使われており、この現状に合わせて、1907 年に尋常小学校で復活したのである。
ところが、台東庁の「蕃人公学校」で行われていた教育には、珠算が取り入れられてい
る(表3参照)。つまり、台湾の方が、時期的には早く珠算教育が一般化した事になる。履修学年も4年生であり、これは、後の国定教科書『尋常小学算術教科書』(緑表紙本)
(1935-1942 年)の定めた履修学齢と同じである。
珠算教育を先住民に行ったのは、「暗算は蕃人の最も難しとする所」という先住民諸言語
と日本語の数え方の違いに考慮したという側面もあるだろう。なお、表3より明らかなよ
うに恒春庁では珠算教育を行っていない。これは、漢族が多いという事だろうか。
しかし、台東庁「蕃人公学校」での珠算以外の算術教育内容は、『緑表紙本』の内容はおろか、『黒表
紙本』と比べても、1年程度進度が遅いことが分かる。授業時間は、小学校1、2年は5時間に対し、
6時間と1時間多くなっているにも関わらず、遅れている。これは、言語や経済状況など学習を阻害す
る要因が多かったためと予想できる。なお、3、4 年次はいずれの学校も週6時間である。
紙本』と比べても、1年程度進度が遅いことが分かる。授業時間は、小学校1、2年は5時間に対し、
6時間と1時間多くなっているにも関わらず、遅れている。これは、言語や経済状況など学習を阻害す
る要因が多かったためと予想できる。なお、3、4 年次はいずれの学校も週6時間である。
1907 年、内地では、義務教育の年限が6年に延長され、それにともない、従来の高等小学校1年に相当
する、(尋常)小学校5年生から珠算を習う事が可能になった。台湾でも、同じように義務教育が6年に延
長されている。
する、(尋常)小学校5年生から珠算を習う事が可能になった。台湾でも、同じように義務教育が6年に延
長されている。
1926 年(大正15 年)になってやっと内地では、高等小学校で珠算が必修科目になっている46。それに対し
て、台湾では、1915 年(大正4年)、「高等小学校教科目及教則」47が制
て、台湾では、1915 年(大正4年)、「高等小学校教科目及教則」47が制
43 1・2年次の算術教材が異なるのは、当時の一般的な方法であり、水色表紙本教科書でも、1・2年次のものは異なっ
た編集になっている。
44 平松誉資事、『公学校に於ける小学算術の実際的研究』(光昭会、1936 年)「尋一上巻」の自序には、「昨年は、教科書の到着も遅れ、甚だしきは六月中旬に初めて手に入った地方もある」とあり、混乱が記されている。た編集になっている。
45 当時の尋常小学校は4 年制なので、5 年生以上の学齢で教育することになる。
46 「算術ハ日常ノ計算ニ習熟セシメ生活上必須ナル知識ヲ与ヘ兼テ思考ヲ精確ナラシムルヲ以テ要旨トス。
尋常小学校ニ於テハ初ハ小ナル整数ノ範囲内ニテ其ノ唱ヘ方,及簡易ナル計算ヲ授ケ次第ニ其ノ範囲ヲ拡メテ小数分数ニ及ホシ更ニ其ノ程度ヲ進メ且簡易ナル比例歩合算ヲ授クヘシ。高等小学校ニ於テハ尋常小学校ニ於テ授ケタル事項ノ程度ヲ進メ且数ノ代数的計算及幾何図形ニ関スル知識ノ初歩ヲ授ケ又土地ノ情況ニ依リテハ日用簿記ノ大要ヲ課スヘシ。算術ハ筆算ヲ用フヘシ尋常小学校ニ在リテハ土地ノ情況ニ依リ
定され、その施行規則には「算術ハ珠算ヲ重ンシ加減乗除ノ速算ニ習熟セシムルヲ主トシ
暗算及筆算ヲ加フヘシ」となっている48。ここでも、台湾における珠算教育が内地以上に重視されていることが分かる。
これは、台湾の高等小学校は、内地の実科中学に近く、生活中心教育49であった事と考え
られる。そこでは、珠算は実務に有用とされ、重視されていた。しかし、教育界からは評
価された教育ではあったが、1921 年(大正10 年)50に廃止されている51。
教材は、先に述べたように『公学校算術科教材』52(1-4 巻= 3-6 年次)、旧『公学校算術書』53、新『公学校算術書』54が発行されている。
『公学校算術科教材』の仮名遣いは、「緒言」六になるように「教師ノ児童ニ対シ問答説
明スル部分ハ凡テ『国民読本』ノ仮名遣ニ拠リ」と規定されている。つまり、助詞の「は」
は「わ」、「を」は「お」、「へ」は「え」となっている。これは、児童が読みやすいようにした配慮であるが、日本語を母語としない教師にも配慮した編集とも言えるだろう。
1 時限の授業では、5 問の問題が標準であり、1問10 分という時間配分となる。内容も
台湾に即したもので、例えば、4 年第9週第1 時第3 題55では、台湾で人口10000 人以上の都市人口の加減乗除が問題になっている。また、阿片の生産、消費についても数値として教材にしているが、米との換算を通じて、禁煙の教育になっている56。
度量衡は、4 年第8 週第4 時57に、1 斤を160 匁(16 両)と教えている。中国珠算の方が計算に便利な例であるが、貫目(1000 匁)も導入しており、中国珠算の使用は考えていないようである。
『公学校算術書』になると、仮名遣いは、日本内地と同じに変わっている58。日本語が普
及したという事だろう。3 年の85 頁で、1貫=1000 匁、1斤=160 匁など尺貫法を教えている。
珠算ヲ併セ用フルコトヲ得高等小学校ニ在リテハ珠算ヲ併セ課スヘシ。算術ヲ授クルニハ実験実測ヲ用ヒ運算ノ方法及理由ヲ正確ニ説明セシメテ理会ヲ精確ニシ運算ニ習熟シテ応用自在ナラシメムコトヲ務メ又図表複利表等ノ取扱ニ慣シメ且暗算ニ熟達セシメムコトヲ要ス。算術ノ問題ハ他ノ教科目ニ於テ授ケタル事項及土地ノ情況ヲ斟酌シテ日常適切ナルモノヲ選フヘシ。」『小学校教則大綱』
47 総督府府令30 号。1915 年5 月
48 吉野秀公.1927:260。
49 吉野秀公.1927:261。
50 1921 年府令24 号。1921 年1 月1 日。
51 吉野秀公、1927:261。
52 1909 年-1911 年に発行。
53 児童用は3 年次から6 年次までで1914 年に発行、教師用は6 年次まですべてあり、1921 年に発行されている。
54 教師用は、1934-5 年に、児童用は1935-6 年に発行されている。
55 P.92。なお、公学校では、10 万までの加減乗除を教えることになっている。
56 4年第7週第5時、pp.332-333。この時間は3題の問題を筆算で解いている。
57 Pp.85-86。この時限の問題も3題になっている。
58 「凡例」6 には、「数ノ唱エ方及ビ助数詞ノ呼ビ方等ハ初ヨリ国語ニ依リ力メテ正確ニ発表セシメンコトヲ期スベシ」と正しい日本語が強調されている。
見ても、台湾で普及していた事が分かる。
日本内地でも文部省で、1931 年になると『小学珠算書』教師用を発行している。2 種類
あり、甲は、帰除法によるもの、乙は商除法によるものである。
台湾では、珠算の指導について、文部省教材時代(1935-1945
年)に研究60が現れている。
表3 総督府教材時代の算術教育規定
尋常小学校高等小学校
小学校( 黒表紙本)1905 年
5時間
20 以下
5時間
100 以下
加減乗除
6時間
1 万未満
暗算
6時間
小数
度量衡
貨幣
時刻
整 数小数
加減乗除
メ ートル法
約数倍数
小数分数
歩合算
最 大公約数
最 小公倍数
比例
比例一般
帳簿
公学校(恒春)1905 年
4時間
20 以下
4 時間
100 以下
加減乗除
4 時間
1000 以下
加減乗除
4 時間
10000 以下
加減乗除
蕃人公学校(台東庁)1905 年
6時間
20 以下
6時間
50 以下
加減乗除
6時間
100 以下
加減乗除
6時間
1000 以
下加減乗除
珠算
『公学校算術科教材』1908 年
4時間
20 以下
4 時間
100 以下
加減乗除
4 時間
1 万未満
加減乗除
4 時間
1 億以上
の呼称
加減乗除
『公学校算術科教授要目』1913 年
100 以下
20 以下
の乗除
1000 以下100 以下
の乗除
1 万以下
の加減乗除
1 億以下
珠算加減
小数
諸等数61
小数分数
珠 算加減乗除
歩合算
メ ートル法
諸等数
小数分数
珠算加減乗除
歩合算
旧『公校学校算術書』1921 年
100 まで1000 まで
加減乗除
1 万まで
加減乗除
整数
諸等数62
小数
加減乗除分数
歩合算
出所)平岡忠.1992:203-204。李園会、1981:.325、327。その他は原史料(教材)により作
成。
(3)文部省教材時代
59 『台湾教育』134 号(1913 年6 月)には、新高堂書店(台北石坊街1 丁目11 番戸)が、玉置哲二・石
橋梅吉、1913、『珠算精義』・教授法研究会、『国定準拠尋常小学珠算教授書』の広告を出している。137 号(1913 年9 月)には、同書店が、学校教授用大算盤(並3 円50 銭、上4 円50 銭、特上5 円50 銭)と生徒用算盤(15 銭から30 銭)の広告を出している。
60 渡辺幸作、「珠算教材の指導観(一)」(『台湾教育』429 号、1938 年、pp.51-59)、渡辺幸作、「珠算教材の指導観(二)」(『台湾教育』430 号、1938 年、pp.52-58)、渡辺幸作、「珠算教材の指導観(三)」(『台湾教育』431 号、1938 年、p.43)。
61 2学期に、曲尺を教えることも可能になっている。『公学校算術科教授要目』P.13。なお、円周率は、
3.1416 とし、適宜省略した値を使うことになっている。
62 度量衡など単位のつくもの。
を使うことになっている。さらに1942年には、公学校は、「課程第二号表に依る国民学校」、蕃人公学校は、「課程第三号表に依る国民学校」と名目上は、国民学校に統一され、それにともない『カズノホン』(1・2 年)・『初等科算数』(3-6 年)のいわゆる水色表紙本になる。
日本内地では、1935 年(昭和10 年)より発行が始まった国定算術教科書『尋常小学算
術』(緑表紙本)で、やっと小学校でも、珠算は4年生で必修とされた。同時に、このとき梁下四珠と梁下五珠のどちらが優れているかという論争はあまりなされず、梁下四珠の新算盤に文部省主導で統一された。
この時期台湾では、1935 年より『公学校算術書・第二種』63が発行されているが、それ
に珠算は含まれていない。従来、内地以上に珠算が盛んだったのだが、逆行している。し
かし、この教科書は使われずに、『緑表紙本』を用いるようになっている。これは、算術では言語のハンディを考えないですむほど日本語が普及したという事だろう。
1941 年の国民学校への改称に伴い、それまでの「算術科」は「理科」とともに「理数科」
となり「理数科算数64」となった。
水色表紙本は、緑表紙本と近い構成になっていたが、珠算については、第2 巻(3 年生後半)で加減を、第6 巻(5 年生後半)で乗除を学習するようになり、前倒しで学習するようになっている。だが、施行期間が短いためその効果を見ることはなかった。
いずれにせよ、この時期は内地とほとんど同じ内容のものを教えるという時期であった
わけである。日本語が台湾に普及した事も一因だろうが、算術・算数教育の変化も台湾の
教育に合っていたのである。すなわち、従来の計算・数学教育から、実務的なものへと移
行したのである。
数学(算術)教育は、厳格に行われており、他の教科は大目に見ても、算術だけは、成
績が悪いと、尻を叩くなどの軽い体罰や、食事を抜くような罰則を科した65。これは、先住民の証言であるが、(本島人の)公学校でも状況は似たようなもので、重要科目は、国語(日本語)と算術、次に修身と漢文だった66。
また、中等教育の場として台湾総督府立国語学校67があったが、その入試科目は、国語(日
本語)・算術・一般教養だけであり、初等教育では、算術が重視されている事が分かる。
ところで、緑表紙本の教師用では、初めて本格的に珠算を導入するにあたって、特に第2
63 「第二種」と表紙にある。教師用は1934-5 年に6 学年全部、児童用は1935-6 年に3-5 年生用のものが発行されている。
64 現代中国では、「算数」という用語はほとんど使われないが、現存する中国最古の数学書の名称は、『算数書』(B.C.186 ごろ)である。城地茂、「中国湖北省江陵県張家山遺跡出土算数書について」(『数学史研究』117 号、1988 年)参照。
65 高淑筠、王亭尹、劉璟瑮、許雅妮、2000 の聞き取り調査による。
66 黄富三・陳俐甫.1991:80。新竹公学校出身の黄旺成氏(1888-1979)の証言。
67 台湾人官吏養成の国語部、小・公学校教師養成の師範部があった。師範部は、中学校卒業生(証言では日本人のみ)に1年間の教育を行う甲種、台湾人に5年間の教育を行う乙種があった。甲種からは、一部__が小学校教員になったが、乙種は基本的に公学校教員であった。
章で「珠算」という章をさいている。また、従来普及していなかった、梁上1 珠、梁下4
珠を指定している68。理由は、筆算を含めた西洋数学との関連を考えての措置69で、妥当な選択といえるだろう。いずれにせよ、台湾が21 世紀まで、1-4 算盤を使うようになった歴史的背景がここにあったのである。
表4 文部省教材時代の算術・算数教育課程
尋常小学校・国民学校
1年2年3年4年5年6年
1935 年
緑表紙本
1935 年
100 まで
加減(1桁)
長さ位置
方向
時間
形
1000 まで
加法(2桁)
九九
除法
時間
暦形
1000 まで加
減乗除
暗算筆算
体積重さ
温度位置
関数
グラフ
10 万加減乗除
奇数 偶数
倍 数約数約分
通分 分数加
減乗除 小数
分数 直線
平面位置 関
数 表グラフ
珠算
億 兆 分数乗除
求積 比例
歩合 代数(公式・方程式入門)
整数小数分数計
算 対称体
回転体 相似形
測量 統計
『公校学校算術書』第二種1935年
100 まで1000 まで
加減乗除10000 まで
加減乗除
整数 小数整数小数
諸等数 分数
比例 歩合算
1 億以上
水色表紙本1942 年
100 まで
文章題
時間
乗法
図形
分数
三角形
四角形
加減乗除
諸等数
珠算加減
小数
水平鉛直
平行線
直方体
体積
形と面積
1 兆 1 毛
尺貫法
四捨五入
約分通分
珠算加減乗除
比 円
角柱円柱
対 称 重心
歩合
珠算 暗算
比例 反比例
歯車 相似
てこ 滑車
度量衡 勾配
角錐円錐回転体
球 簡便算
概数 地球・暦
大東亜
出所)平岡忠、1992:204-205.その他は原史料(教材)により作成。
五 日本式教育における台湾伝統算術教育漢族の商習慣は保守的であり、先住民がそれに参加することは難しかった70。まず、台湾では、帳簿に数碼を使っている。これは、現在、香港でも使われているもので、算木の布
68 算盤は、次のものを標準とする。桁数、十三桁若しくは十七桁。珠の数、天一顆、地四顆。珠の大い(ママ)さ、横1.4 糎乃至1.5 糎。定位点、四桁(日本の大数が4桁進法であることに合わせている。引用者)毎にうつ。(『尋常小学算術』第四学年教師用下、p.28。)
69 (イ)記数法と一致し、筆算との連絡がよい。(ロ)地四顆のものは、地五顆のものに比して、珠の数が少ないだけ数を認識しやすい。(ハ)地五顆のものは、同一の数を幾通りにも置き得るから合理的でない。(ニ)運珠法としては、地五顆の算盤を用ひても、その最下のものは使用しないのが普通である。即ち天一顆・地四顆は必要にして十分なる条件を備へたものである。地五顆は、一見入易いやうであるが、却つて正しい運珠法を修得し難い原因となる。(ホ)地四顆のものは、五顆のものに比して、珠の数が少ないだけに、誤謬を生ずる率が幾らか少ない。地五顆のものは、最下の一顆を用ひると都合がよいことはあるが、このやうな場合は極めて少い。しかも、普通の運珠法に比して、格段の有利さは認め難く、たとへ五顆のものを用ひさせるとしても、下の一顆の活用を児童に教へるのは無理であり、必要も認められない。(『尋常小学算術』第四学年教師用下、p.28。)
70 高淑筠.王亭尹.劉璟瑮.許雅妮.2000:48。
図2 台湾で使われていた数碼出所)片岡厳.1924:263 より。
図3 算木出所)銭宝琮、『中国数学史』(科学出版社、1964 年)p.8 より。
これは、1913 年には、公学校の5 年生2 学期に貨幣を教えるときに、「本島ノ記帳文字」
として教える事になっている71。
また、数字の符牒を用いることで、台湾人だけの分かる暗号としていた。中国語には、「大
写」という改竄防止の数字があるが、この方法は北京語の発音で数字に近いものを使うと
いうものである。しかし、台湾で最も使われる閩南語では、発音が近いとは限らない。そ
こで、数字の一部分を使った漢字を当てたのである。
例えば、四には羅を当てている。冠の部分が四だからである。
表5 台湾の各種数字
漢数字 大写 台湾符牒
漢数字 大写 台湾符牒
一 壱 正 二 弐 元
三 参 斗 四 肆 羅
五 伍 吾 六 陸 立
七 柒 化 八 捌 分
九 玖 旭 十 拾 士
71 『公学校算術科教授要目』、p.17。なお、伊籐治平.1916.「台湾簿記の研究」で、数字を紹介している。
このような商習慣は、有形無形に先住民を排斥していたようである。したがって、先住民にとって日本の教育は、本島人たちと商売をする切っ掛けとなった。パイワン族の古老は、この事が一番有りがたい事だったと証言している72。
台湾の伝統的な教育機関である書房・義塾では、あまり理数系教育は行われていなかっ
た73のであり、むしろ、台湾の伝統算術は、日本式教育で広まったとも言えるだろう。
表6 書房・義塾の教材
(読本) 三字経
大学正文
中庸正文
論語正文
孟子正文
大 学集註
朱熹
中庸集註
論語集註
論語集註
孟子集註
詩経正文
初学群芳
孟子集註
詩経正文
初学群芳
書経正文
書経正文
易経正文
孝経正文
易経正文
春 秋左氏伝
春 秋左氏伝
礼記精華
礼記精華
(文詩) 玉堂対類玉堂対類
千家詩
声律啓蒙
唐詩合解
唐詩合解
起講八法
童子問路
唐詩合解
童子問路
初学引機
寄獄雲斎
童子問路
初学引機
寄獄雲斎
十歳能文
初学引機
寄獄雲斎
能与集
小題別体
能与集
小題別体
七家詩
訓蒙覚路
小題別体
七家詩
青雲集
塔題易読
青雲集
塔題易読
幼 童挙業
啓悟集
小塔清真
(練字) 順 字上大人
描字練法帖練法帖練法帖練法帖練法帖
出所)片岡厳.1924:176-17774。
また、時代とともに書房・義塾より、公学校、国民学校に通う児童が増え、書房・義塾
の影響は少なくなって行く。
表7 書房・義塾の統計年 書房数 教員数 生徒数 書房あ
たり教員数
書房あたり生徒数
1 学年あたり生徒数
1897 1707
29941 17.54012888 1.754013
1898 1496 27567 18.42713904 1.842714
1899 1421 25215 17.74454609 1.774455
1900 1473 26186 17.77732519 1.777733
1901 1554 28064 18.05920206 1.80592
1902 1623 29742 18.32532348 1.832532
1903 1365 25710 18.83516484 1.883516
1904 1080 21661 20.05648148 2.005648
1905 1055 19255 18.25118483 1.825118
72 高淑筠・王亭尹・劉璟瑮・許雅妮、2000 の聞き取り調査による。
73 1898 年に、日本語と算術を教育するように、通達「書房義塾ニ関スル規程」が出ている。
74 林文龍.1999:125(伊能嘉矩の調査による)とはやや異なっているが、基本的に同じ程度の教育をしている事が分かる。課程は書房ごとに若干の差異があったようである。
1906 914 19915 21.78884026 2.178884
1907 873 886 18612 1.01489
21.31958763 2.131959
1908 630 647 14782 1.02698 23.46349206
2.346349
1909 655 669 17101 1.02137
26.10839695 2.61084
1910 567 576 15811 1.01587
27.88536155 2.788536
1911 548 560 15759 1.0219
28.75729927 2.87573
1912 541 555 16302 1.02588
30.13308688 3.013309
1913 576 589 17284 1.02257
30.00694444 3.000694
1914 638 648 19257 1.01567
30.18338558 3.018339
1915 599 609 18000 1.01669
30.05008347 3.005008
1916 584 660 19320 1.13014
33.08219178 3.308219
1917 533 593 17641 1.11257
33.09756098 3.309756
1918 385 452 13314 1.17403
34.58181818 3.458182
1919 301 350 10936 1.16279
36.33222591 3.633223
1920 225 252 7539 1.12 33.50666667
3.350667
1921 197 221 6962 1.12183
35.34010152 3.53401
1922 94 118 3664 1.25532 38.9787234
3.897872
1923 122 174 5283 1.42623
43.30327869 4.330328
1924 126 180 5165 1.42857
40.99206349 4.099206
1925 124 178 5143 1.43548
41.47580645 4.147581
1926 128 190 5275 1.48438 41.2109375
4.121094
1927 137 215 5312 1.56934
38.77372263 3.877372
1928 139 218 5597 1.56835
40.26618705 4.026619
1929 160 236 5700 1.475 35.625
3.5625
1930 164 236 5968 1.43902 36.3902439
3.639024
1931 162 234 6146 1.44444 37.9382716
3.793827
1932 157 220 5344 1.40127
34.03821656 3.403822
1933 144 194 4940 1.34722
34.30555556 3.430556
1934 114 151 3956 1.32456
34.70175439 3.470175
1935 104 142 3857 1.36538
37.08653846 3.708654
1936 84 127 3404 1.5119 40.52380952
4.052381
1937 33 62 1808 1.87879 54.78787879
5.478788
1938 23 47 1459 2.04348 63.43478261
6.343478
1939 18 41 1008 2.27778 56 5.6
1940 17 38 996 2.23529 58.58823529
5.858824
1941 7 11 254 1.57143 36.28571429
3.628571
出所)吉野秀公.1927:235、353-354、547。台湾総督府文教局(編).1946.『台湾の学校教育・昭和15 年度版』:124。台湾総督府文教局(編)、1947 年、p.123。台湾総督府文教局(編).1933.『台湾総督府第三十学事年報』:376 より作成。
六 まとめ以上のように、台湾では、日本内地以上に珠算教育が重視されていたことが分かる。中国伝統の文化に加え、実務としての珠算は、台湾では受け入れやすかったようである。
反対に、内地では、珠算は伝統数学の一部であり、西洋数学へと続くものとは考えられていなかったのである。これは、台東庁の蕃人公学校で、数学のレベルは低く押さえ、珠算の教育を行っていたことからも分かる。
日本の教育機関では、もちろん、日本算盤を使っている。しかし、実際に、伝統的な計
算器具を改造するのは困難と見えて、台湾で教えられた日本算盤は、梁上一珠、梁下五珠
の旧式算盤であった。1938 年より四つ珠算盤に統一されるはずであるが、台湾では、中国算盤の影響か、五つ珠算盤の印象を深く残していたようである。台湾人の感覚では、四つ珠が普及するのは、日本統治時代が終わってからの事である。
台湾の学校教育では、戦後も日本式算盤が用いられている。中国算盤の伝統を伝えたの
は、商人であろう。しかし、実用的には、上下二珠が有用であったとは思えない。なぜな
ら、日本では江戸時代にすでに、乳井貢が、『初学算法』(1781 年)で四珠の有用性を述べているように、数字自体が十進法である以上、四つ珠算盤の方が使いやすいはずだからである。75中国算盤は、商家の象徴的なものとして伝わっていたのではないだろうか。
七 謝辞
公田藏名誉教授、小寺裕博士より、数学教育史資料の提供を頂きました。末筆ながら、
ここにお礼申し上げます。
75 鈴木久男、1967、p.243。また、明治以降では、西川秀二郎が1893 年、『数学報知』に四つ珠算盤にする事を主張している(鈴木久男、1967、p.243)。
八 略年表
1871.7.18
文部省設立
1872.8.2.
学制発布
1873 文部省編纂『小学算術書』(コールバーン「算数第一教程」に基づく)
1880 尾関正求、『数学三千題』(受験用問題集)発行、ベストセラーに。
1895 台湾総督府 学務部(大稲埕)・芝山巌学堂設立
1996 民生部学務課 国語伝習所
1898「台湾公学校令」、「台湾公学校規則」
1900「小学校令」、「小学校令施行令」改正 尋常小学校4年 高等小学校4年珠算は高等小学校で学習。「幾何の初歩」の廃止。
1902「台湾小学校規則」
1903 公学校で内地人の教育可(-1919)
国定教科書制度開始(小学校令改正)。
1905『尋常算術書』(黒表紙教科書)
「蕃人ノ子弟ヲ就学セシムベキ公学校ニ関スル規程」
1907 尋常小学校6年制 高等小学校2(~3)年制 5年次で珠算(台湾も同じ)
『高等小学算術書・珠算・教師用』
黒表紙本第1次改訂 (修業年限の改訂)
1909 『公学校算術科教材』(1-4、1911 年まで)
1914 『公学校算術書』児童用(3-6)
蕃人学校規則(蕃人学校の内容を統一)
1915『蕃人読本』(-1916)
1918 黒表紙本第2次改訂(-1924)低学年にも応用問題導入
1920 日台共学
1921 『公学校算術書』教師用(1-6)
1924 黒表紙本第3次改訂(-1928)メートル法導入
1931 『小学珠算書』教師用(2冊)甲=帰除法 乙=商除法
1934 『公学校算術書(第二種教師用)』発行(-1935)
1935『尋常小学算術書』(緑表紙教科書) 4年次で珠算必修(1938 年)
『公学校算術書(第二種児童用)』発行(-1936)
1941 台湾教育令改訂(国民学校化)
小学校→課程第一号表に依る国民学校
公学校→課程第二号表に依る国民学校
蕃人公学校→課程第三号表に依る国民学校
1942 国民学校『初等科算数』(水色表紙教科書)3年次・5年次で珠算必修
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渡辺幸作(1938c)「珠算教材の指導観(三)」『台湾教育』431:43。
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